2021.03.03(2021.03.10 更新)
【東日本大震災から10年】シンボルの砂浜を守った地域活動からの学び(宮城県・大谷海岸)
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▲2021年2月1日現在の大谷海岸。砂浜を残すように防潮堤をセットバックし、その上に乗るようにかさ上げされた国道が走る。
テーマ:防潮堤・護岸
フィールド:海岸海砂浜
宮城県気仙沼市の大谷海岸では、地域住民の「砂浜を残したい」という思いが交渉の末に認められ当初の防潮堤計画を大きく動かしました。
その中心的な役割を担った一人である「大谷里海づくり検討委員会」の三浦友幸さんに今の気持ちを伺いました。
お話をお聞きしたのは、この人
三浦友幸さん
宮城県気仙沼市出身。大谷里海づくり検討委員会事務局長。プロジェクトリアス代表理事。気仙沼市議。
(写真・図=三浦友幸)
可能な限りの努力を行った
自然保護と生物多様性保全に大きく貢献した取り組みに授賞される「日本自然保護大賞」。その2017年選考委員特別賞に、宮城県気仙沼市の大谷地区振興会連絡協議会と大谷里海づくり検討委員会による「気仙沼市大谷海岸での取り組み~砂浜の存続と防潮堤計画の変更~」が選出された。
砂浜のすべてを埋め立てる防潮堤建設計画が上がった大谷海岸を守るために、住民間の対立構造をつくらないことに注意しながら、住民参加の署名と住民主体の議論や勉強会を行い、4年をかけて防潮堤を砂浜の上に造らない計画への変更を促したことを評価されての受賞だ。
授賞式当日に壇上で活動報告を行った三浦友幸さんは、活動の主軸として地域住民の合意形成をはかり、行政と粘り強い交渉を続けたキーパーソン。建設計画変更の経緯については下の表および日本自然保護大賞の特設サイトから当日の発表動画を観てほしいが、ここでは震災から10年を経た現在、気仙沼市議としても活躍する三浦さんに、今の思いをお聞きした。
「大谷海岸の防潮堤については例えるならばサイコロを振ったら6の目が7回連続で出るぐらいの奇跡的とも言える要因がいくつもありました。なによりまずは市長が砂浜を残そうとしてくれたこと。次に気仙沼市全体を対象とする『防潮堤を勉強する会』が市民リテラシーを高め、さらに防潮堤問題に社会の目も注がせたこと。そして防潮堤のセットバックを可能とするため海岸の一部を林野庁の治山海岸から県土木の建設海岸に海岸の管轄変更を行ってくれたこと。復興庁が関係者会議を立ち上げて横連携を図ってくれたこと。JR気仙沼線がBRT化に伴い沿岸路線の土地を譲渡してくれたこと。ただ、その上で、私たちは住民側ができる限りの努力を行ってきた、とは言えるのかもしれません」
失敗のできない難しい交渉を後支えしたのは、なによりもまず「大谷海岸の砂浜を守りたい」という住民の総意を得られたことだった。
▲防潮堤を勉強する会。2カ月半に13回開催され述べ2500人以上が参加した。
▲砂浜で祭りやイベントを開催し、地域の「砂浜を残したい」という思いを高めた。
「大谷の場合、地域が一つにまとまったことが何よりも大きかったと思います。震災後に動きはじめた若手有志が勉強会やコミュニティー活動を通して地域との信頼関係を深め、元々地域との信頼関係のあった青年部を担っていた世代と合わさることで、結果として大谷海岸の具体化を任せてもらう形で『大谷里海づくり検討委員会』が発足し、大谷地区の自治会連合会とともに大谷海岸の地域ビジョンを作りました。
数年前から被災地のさまざまな所で防潮堤建設計画の行方を調べています。やはり住民側の意見が割れている状況では、行政と交渉することは難しいと思われます。また、『復旧・復興事業は早く終えるのが正義』だった当時の復興ムードの中で、大谷の場合は地域でじっくり考えることができました。シンボルとも言える砂浜を意地でも残すという意思を持ちながら時間をかけて住民同士や行政との信頼関係を積み上げていくことができたんです。さらに、大谷地区にはこれまでしっかりと自治を積み上げてきた素地もありました」
交渉や話し合いをするにあたって三浦さんの心の中には「最終的に全員を味方にしていく」というイメージがあったという。つないで、話して、信頼関係を積み上げていくことが何より大事だという強い想いは、次のような言葉からもくみ取れた。
「定期的に自宅跡地に行き、震災の記憶をたどります。危機感が薄れたり迷って動けない時に当時のことを思い出すことで、ぎりぎりの一歩が踏み出せるんです。これまで多くの人と出会い、応援されてきました。ひとりで活動しているわけじゃないという思いを強く実感しますね」。
防潮堤建設計画に住民の意見を汲み入れ、結果として地域の宝である砂浜を守ることに成功した活動のぶれない軸は、故郷を想う強い気持ちがしっかりと支えていた。
▲大谷海岸の防潮堤にまつわる復興計画最終案。住民の意見が反映され防潮堤のセットバックと国道のかさ上げを果たした。
大谷海岸を通して伝えたい「第三の選択」の大切さ
努力と幸運の末、大谷海岸の防潮堤セットバックが認められた。それでも三浦さんの思いは複雑だったという。
「結局、被災地の防潮堤問題自体は変わらないという思いがありました。どうすれば方向性は変わるのかと」
そんな時に参加したのが沿岸環境関連学会のシンポジウムだった。そのシンポジウムで重要な登壇者が、「日本の海岸は環境・利用・防護の三本柱で成り立っている」という話をしていた。
「講演中の質問で私は『防潮堤に関しては津波シミュレーションという防護パラメーターだけで海岸の在り方が決められていませんか?』と投げかけました。それに対しその方は『その通りでわが国には現在のところ3つのバランスを取る仕組みがないんです』とおっしゃったんです。ならば大谷海岸の例は東日本の海岸の在り方に影響は及ぼせませんでしたが、日本の海岸の在り方の一つの選択肢としては存在感を示せるのではないかと思ったんです」
三浦さんは大谷海岸の実例を、「第三の選択」の大切さとして伝えていきたいと言う。
「今はだいぶ柔軟にはなったものの、復興事業ものるか反るか、福島原発の帰還政策もしかり、多くの場合で極端な二択しかないんです。でも本当は地域によってさまざまな事情があり、それに基づいたまちづくりの方向性があるはずです。大谷海岸の国道のかさ上げは、その一例だと思っています」
巨視的な対立軸の二択ではなく、地域ごとの特性に基づいた第三の選択を丁寧に真摯に粘り強く模索し提案していく。三浦さんらが大谷海岸で成し得た実績は、先例となって次の地域問題解決の後支えとなるはずだ。
大谷海岸の防潮堤に関する活動の流れ
•防潮堤に関する住民参加のための署名活動(計画の一時停止と住民意見の反映)を行う。1324名の署名を気仙沼市長に提出。
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結果として賛成派・反対派という対立関係を回避し両者共同の活動となった。
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•自治会が中心となり大谷海岸の砂浜を残すことと国道をかさ上げする案を盛り込んだ震災復興計画を気仙沼市長に提出。
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地域住民の「砂浜を残したい」という共通する想いを確認した。
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2012年7月
•気仙沼全体を対象とする「防潮堤を勉強する会」が発足。各行政機関や専門家を講師に招き8月~10月半ばに13回開催。
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2012年11月
•地域の若い世代を中心に「大谷まちづくり勉強会」を発足。勉強会の結果を地域の自治会に毎回提出し、地域との信頼関係を構築する。
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•県から防潮堤セットバック案が降りてきたが、地域住民は砂浜の面積が少ないことと国道のかさ上げが認められていないことから合意を拒否。
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•地域の自治会と行政との間で議論が続く。
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2014年9月
•地域の若い世代を中心に「大谷里海づくり検討委員会」が発足。30名の委員のうちの8割が20代~40代。自治会にも認められ、地域から大谷海岸のまちづくりを任せられる。
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2015年8月
•「大谷里海づくり検討委員会」にて、防潮堤をセットバックして大谷海岸の砂浜を残し、国道をかさ上げする案を含めたまちづくりの形をイラスト化。市長に提出。
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•「砂の造形づくり」のイベントや祭りなどのコミュニティー活動を大谷海岸で定期的に行い、結果的に地域の「大谷海岸を残したい」という気持ちの醸成につながる。
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2016年7月
•行政側の住民説明会が行われ、大谷里海づくり検討委員会も協力し、これまでの過程を説明し、防潮堤のセットバックと国道のかさ上げが決定。
特集『東日本大震災から10年~復興と自然の移り変わり~』
<目次>